ゴムボート

水木しげる

散漫

 

もう来年の3月分までの受講料を美術予備校に払っちまったんで嫌々デッサンをやってるが、描きながらずーっと集中は出来ていない。先生が他の生徒の絵を講評に回ってるその一言一句が全部聞こえてくるし、その内容も誰に対してもたいてい似たようなことを言ってるし、自分は描きながらずーっと好きでもないのにただ頭に残ってるだけの曲の何フレーズかを頭の中でループさせており、頻繁に目の前のモチーフ越しに見える生徒の背中のダサいバックプリントに目が行ったり、15分おきにトイレに立つ生徒への悪態を心で唱えたり、この後帰る時、他の生徒とエレベーターで一緒に帰りたくないから、急いで帰り支度をしないといけないけど、おれとおんなじ事考えてる生徒もいるはずだから、そいつと同じエレベーターに乗らないようにいい感じに緩急をつけた帰り支度をしなきゃいけないんだよな、とか、春だから練りゴムがすぐ柔らかくなるなとか。

視線はモチーフに向けて集中しているフリはしているが、頭に毎秒雑念が去来している。だからといってうまく描けてないわけではない、昨日も先生が四回ぐらいおれの画用紙を覗き込んできたが四回とも「いいよ」とは言っていた。そりゃそうだここに来る前にYou Tubeで予習してきたからなと、また発声にはしない雑念は湧く。対象ではなくことごとく自分にしか集中できてない。自意識しか持ってないということなのだろうか?

ここにいる人達みんな集中しているふりをしにきているだけではないのかと思ったので集中力、とはなんぞやといった感じの、人の内側事情に詳しかろう人を検索することにした。

自分は自分以外の人間をやったことがないので他人が言うところの集中とやらが自分が示せるところの集中と一致するのかわからんが、集中力、なるものはほんとに在るのだろうかと常々疑問だったこともあって、このデッサン時での話も出来たらなと思い、近所の心療内科に事の真相を聞きに行こうと決める。近所に数件あり。

ホームページから予約を入れようとしたら電話予約しか受け付けてないとこで、心療内科に行こうと思ってる人なんてみーんな電話かけるのもかかってくんのも嫌いだろうから考え直せと電話したくなったぞとメールをしたかったが、切羽詰まって緊急に予約したいって人もいるよなと、広い視野を持つことで容赦した。

他の病院のホームページはメールでの予約を受付けていたのでそこにメールに必要事項を打ち込んで送信すると、「後日お電話にてご予約の詳細を折り返させて頂きます」とメールが届いてお前んとこみたいな病院じゃ真相にたどり着けん。

これは自分の理想でもあるが、何かに打ち込んだその事後になって「いやー気づいたらこんな時間かあ、集中してたんだなあ!」と振り返り思い馳せられるそれが集中力であってほしいが、そんな経験した記憶はない。ということはおれはずーっといままで集中していたのだろうか?いけすかねー例えで苛つかせてやるが、自分はしおりの数がページ数より多い本なので、外界を捲るかどうかの度に自意識を挟み込む。これは悪癖であり自分が理想とする対象に向けての集中ではない、逃避だと思う。と。

ここまで書いたところで思ったが、こんなに気が散って散ってしかたなさすぎるってことは、気が散るってのは実のところ重要な機能ではないのか?

狩猟採集社会の頃の人類の一部に集中の得意な個体と集中の不得意な個体がいて、気が散りやすい集中不得意人類が、なにかに没頭出来ないがゆえに危機察知に長けることが出来、いきのびて、自分みたいなのがいるんでしょうな。でも集中ができる人もこの現代にはいるらしいのです、お互い共存共栄持ちつ持たれつで生きようってことでしょうね。なのでもうこれかもちゃんと集中せず、気が散る側としての役目をちゃんとやったほうが良いですね。さようなら

 

f:id:araihama:20220415024304j:plain