だいぶ前素人の研究社にて自らの意思でお蔵入りにした記事がある。リリース直前にサイトのテイストにあまりにもあってなさすぎどころか、サイトのイメージを著しく毀損しうる記事と気づけたから。英断だと思う。
路上観察の新たな切り口を模索していた私はついにもう完全に嘘の話を捏造することにした。終盤人を殺す描写もある。ズッキーニさんが作ってくれたあのサンクチュアリでこれが放たれていたと思うとゾッとするがこの場でなら問題ないので以下にそのお蔵入り記事をのせる↓
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車のオリジナルキャラクターが、自身のホイールカバーを探すという設定の記事でどスベリしてから、私の心はつつつつつっとスベってって、どこが折れたかどうかも確認できぬ遠くへいってしまった。それ以来私は人を笑わせることはもちろん、笑い方すら忘れてしまった。
ストリートカレイを見つけても、なんら感銘を受けなかったのだから事は深刻だ。
みんな電気代払えてないの?と反響の無さを数日は人のせいにしたが、原因はむろん私自身の力不足であった。滅多なことはするものではないね。初心へかえろうと思ったが、その肝心の心がねえもんでまいった。
私の心はどこにある。ブリキの木こり状態の私は街を彷徨っていた。関節は静かだ。
あなた達はその経験がないからわからないでしょう、心がなくとも腹は下せる。それに私ときたら元来の頻尿もある。
コンビニっていいですよね。近くにあって、全部あって、ずっと開いてて、トイレだってあるんだから。私は急ぎつつしめやかに駆け込んでいた。
そうか、もうそんなシーズンか。
シャボン玉ぐらい薄いトイレットペーパーを温い便座に敷き腰をおとした私は、正面のタイルに貼られたポスターへ虚ろに視線を乗せた。良いポスターだ。ヨスターだ。ヨースター島。心がないから心にもないことがいくらでも言えんだ。
よく見てみると、11にバッテンが引かれてある。おそらく、先月から貼ってあったものに改変を加えたのであろう。そのほうが労力的にも経費的にも安上がりだからね。
私は心がないにも関わらず、感心したみたいにうなった。それに乗じて気張りもした。
おや、三行目にも訂正が入ってるぞ。
「ヨセロイ!!」?
それがなぜそうなるに至ったのかを勝手に推し量るってのは面白い。
その際の真偽の程などはどうだっていい。
それは私に限ったことではなく、誰しもがそうだと思う。それが喜劇であれ、悲劇であれ、人は物語を愛するのだ。
「ヨセロイ」という新語がコンビニトイレにて産み落とされた経緯はこんな感じだろう。
トイレを借りにきた客が、店側がプレミアムチキンの本数を下方修正したことに憤慨し、まずカタカナで「セコイ!!」とレスをつけた。
その後、「セコイ!!」は何者かによって加筆され、「ヨセロイ」というキメラ新語が成り立った。というわけだ。粗末な考察だが概ねそんなところだろう。
まずベースとなったレス、「セコイ」は私も抱いた気持ちであるところから容易に導き出せた。
なぜそんな下卑た感想を抱けたのか?件の記事がウケなかったことをみんなのせいにするぐらいだから。というのもあるが、
御覧のとおり「経緯」が明け透けとなっていたからだ。
かつては3本であったことをバラしてしまってるのだ。
「11月」にバッテンを引いて、横に12と足すのはただの日付変更であるが、特典である「3本」にバッテンを引いて横に1と足してしまうのは、まさに下方修正のその「経緯」を、「悲劇」を明示したことになる。
店内備品であるこのヨスターに落書きをした奴が大罪人であるのは自明であるが、「セコイ!!」という感想をトイレ利用者から引き出させたのも、また事実ではないだろうか。
犬も喰わぬなら蝿もたからぬ冗長な考察と下痢を奮発し終えた私は、手を流しながら、まるで店側にも多少の非があったかのような血も涙もない考察をしたことを省みていた。末端冷え性のため、今しも水が手を打っていることも、その冷たささえも感じなかった。
濡れそぼった手をジェットタオルにかざそうとした、その時。隅に置かれた造花に目を奪われた。
ふいに私は、先程の考察ではっきりとさせていなかった箇所、
「、、「セコイ!!」は何者かによって加筆され、、、」
の「何者か」が誰であったのかを理解した。
そうだ。「セコイ」を「ヨセロイ」へ加筆をした者それは、
「セコイ」を落書きした本人だ。
生きていたわけでもないのに、とうに枯れたみたいに色素の薄い造花を目の当たりにし、そう確信した。奴も私と同じ心情になったに違いない。
まさしく、コップ。としか言いようのないコップ然としたコップに、まとまり無く差し込まれた造花。美観を損なわぬようにと、一応の配慮から置かれたのであろうその造花が、かえって美観をしおらしく、乏しくさせてしまってる。
水気を飛ばしきれていない手で洩れゆく嘆声を押さえる犯人は、ちいさく逡巡する店員に思い馳せたはずだ。ここだと映えるかな?いやこっちに置こうかな?造花の入ったコップを持つ店員の、その手つきを。
以上のような背景事情を夢想した犯人は、もう一度トイレの戸を開け「セコイ!!」に改心の一筆を加えたのだ。
人は物語を愛する。犯人はつまり経緯を推し量って憤慨し、経緯を推し量って感嘆さえしたのだ。
私は己が無理くりこしらえた事の経緯に満足しながらコンビニを後にした。
外を出るとちょうど件の大罪人がおり、自供をしてきたので、おれではなくポリ公へ言いなとケツを蹴り飛ばしてやった。よろけてガラ空きとなったその背に、護身用のジングルベルを振り下ろし、奴が気を失ってるうちに毛髪すべて引き抜いてやった。メリークリスマス。
そんないき過ぎた制裁への天罰であろうか、またしても強烈な腹痛に襲われた私は、曇り無きまっさらな便意に引率されるがまま、付近にあったコンビニに入店していた。
現在コンビニの数は地球上にある砂粒と人類を足した数よりも多いとされている、見つからないほうがおかしいのだ。
トイレのドアノブに手をかけようとしたその時、頭上に異様な視線を感じた私は、頚椎ヘルニアを気遣いながら不穏の先をじわり仰いだ。
どの表情でもない猫が鳥居の神額のようにして掛かってあった。猫を愛する者にとっては素晴らしいインテリアだ。トイレに入るのがこんなにも楽しみに思えるなんて。
この扉の先には一体どんな光景が広がってるのだろうたぶんトイレだろう。
表の猫に期待値をあげられたばかりに特筆すべきものはないと感じたが、便座に腰掛けると右隣の壁に、恬と額に収まる猫のシールがあった。たったこれしきの壁面演出でほだされると思うてか?私も軽んじられたものだ、ケチくさいシールの分際が。息むに合わせて悪態をつく。シール風情が思い上がるなよ。
すると、そんな私を諫めるように自動消灯が目の前を暗くさせた。急遽即席のオリジナル手話で暗晦を掻くと、再び猫のシールが姿をあらわした。こんなシール如きにホッとさせられちまうなんて。
私は懺悔の代わりに再び「経緯」をみつくろう。このシールが貼られるに至った物語を。
どうしても陰気臭いこの空間にせめてもの彩りを、と店員が苦慮の末編み出したインテリア、それが猫のシール。愛くるしいではないか。
インテリアとは大雑把に言ってしまえば、垢抜けを目指す室内装飾のはず。良かれと思ってとった方策が、さらなる垢を注ぐ結果になるとは。
実ところは、「なんかバックヤードにシール余ってますねえ。おっ、トイレの壁のここ空いてます。貼っときましょうか」だったとしても、そこに確かに人が関わったのだという事実は揺るぎない。それだけでもう。
涙を拭ったティッシュと下痢便を流して表へ出ると、見覚えのあるの絵が女子トイレの入り口に飾られている事に気づいた。
蛍光灯の照り返しのせいで、鉢巻きで視界を狭めれば狭めるほどいいと思ってるラーメン屋になっているが、私はアートにびしゃびしゃに精通しているので秒で理解した。この絵を描いたのはUNIQLOだろう。お洒落に目覚めんとする中高生のTシャツにプリントされているのを見たことがある。あと缶詰が並んでいるだけのやつも。まさかこんな場末でガチの原画に出会えるなんて。
感動冷めやらぬこの調子のまま本筋である、失った心探しを再開しようかなってところに、手袋、ニット帽を濃く、重くする冬の雨である。さっきUNIQLOとか適当な事を言った罰だろうな迎えてやるか、とコンビニの庇からこの身を差し出すと。
誰からも愛されたことがないこの冬雨を突っ切り、向かってくる人影が見えた。さっきのコンビニでとっちめたはずの落書き犯だ。しぶてえやつめ。
奴が片手になにかしら武器を所持しているのを認めた私は、ナップサックをまさぐり、取り出したクリスマスキャロルを特殊警棒の如く引き伸ばした。
思いの外、間を詰められており、受けの構えしか取れなかったが、振り下ろされてきたそれが、さっきの現場に忘れてきた私のジングルベルだとわかった。
落書き行為だけじゃ飽き足らず、置き引きまでしやがって。つばぜり合いのさなかに飛び散った火花の猛烈な黄色が、一瞬この場をIPPONNグランプリのスタジオかと錯覚させたが、難なく奴をいなし、またガラ空きとなった奴のその背にクリスマスキャロルを1000発打ち込んだ。奴はサブレのように砕け散って、雨にふやけていたので多分死んだかもしれない。
正当防衛の言い訳も効かぬ事態にも私は狼狽えていなかった。霧がまく湖畔のように、ステンレスの白いくすみのように落ち着いて返り血を拭き落としている。さっきとは別のコンビニの洗面台で。
おおかたの血痕を拭き終えた私はおこがましくも一欠片の激落ちくんを自分自身に重ねていた。
自分とは関係のない汚れを落とすために自らを擦り減らし、いずれ消える、それだけに生まれてきた。私もついさっき巨悪を倒し、その過剰防衛さゆえに檻にぶちこまれるのだろう。服ももう着てないしさ。
空虚な人生だ。寒々しい現実だ。それならば心があるだけ苦痛じゃないか、幸運にも心を見つけてしまう前にそれに気づいてよかった。
詮ない造花数本に自戒を促される奴がいて、詮ない猫のシール一枚にほだされる自分がいて、と物語をこじつけてきたきたのは、この現実が意味を持ってなかったからなのかもしれない。
ただの造花と、ただのシールと、ただの激落ちくん一欠片。どれも糞味噌に貶そうと思えば貶せる。どれもびちょんこに褒めそやそうと思えば褒めそやせる。そこでなぜ、むやみに経緯を推し量り、そして褒めそやす事を選んだのかといえば、ただ私自身が機嫌よくありたかったからだ。
出頭前夜のお慰みに短いカルパスでも買ってくか。あと服も買わねえとな。なかば吹っ切れた足取りで店内を巡っていると、すでにトイレから離れてるはずなのに、鼻の根に稲妻が刺さったほどの異臭を感じた。
外国人店員が外へ走って出て行き、ダンボールを脇に抱えて戻ってきては床にばらまくのを、3往復。それを眺める。雨漏りかと思ったが、下水かなにかが浸水してきてるらしい。それをダンボールに吸わせてる。
人は物語を愛する。
それはなぜか?自分を救うためだ。こじつけてないとやってらんねえんだ。そしてこのダンボールの道は、私がもうスベらなくていいように敷かれたレッドカーペットだ。ありがとう。
伊達さん、富澤さんもとびっきりの笑顔でお見送りありがとう。心がなくなった分だけ出来たその隙間に、あなた達の笑顔が砂肝みたいに跳ね回ってる。
臭くたって笑っていたい。機嫌よくありたかっただけなんだ。鏡まで戻らなくともわかるぜ、二人につられておれが笑っている。あとは誰かを笑かすだけだ。
頼もしきレッドカーペットを踏みしめて外へ出ると、警官5、6人が立っていた。ひとりの警官の「わかってるな」という声に、私は娑婆で最後のたとえツッコミを放つ。
おいおい、たったひとり捕まえるのに大所帯だな、ピットインかよ。
さようなら