ゴムボート

水木しげる

メタ商店街

この動画の千原ジュニアが、

ほんとの話だけど、そのまま出力してしまうと逆に嘘っぽいので、一部をあえてグレードダウンさせて真実みを醸し出させた、というすべらない話のことを語ってて

 

 

自分自身すべらない話を披露する機会なんてないしそもそも持ってないがすごく理解できた。現実味のためにあえて事実に嘘を混ぜるこの配慮というか気遣いというかビビリというか。

すべらないためにはまず真実の話として受け取られることが大前提なので当然っちゃ当然かも。ホラ吹きと呼ばれるのは不名誉ですからね。

 

いまさら今一番叩かれやすい叩きやすいでおなじみのウーバー配達員の話を心苦しいからしたかぁないんだけど、先日実際に見たまんまのことを書いてみよう。

緑のリュック背負ったまんま橋の袂から川に向かって立ちションしていた。シンプルな話ですよ。これは紛うことなき事実なのだが、もしぼくが雑談のなかでこれを繰り出すとなれば、出○館がマンションの植え込みのとこで立ちションしていた、ぐらいに改変する。(ウーバーは叩かれすぎてるし、川に放尿は流石に奔放がすぎるから)

そもそもホントのことをそのまんま話してしまうと、よもや嘘だと思われる可能性がある事が面白いですよ世間。下方修正を施さないと面白いものとして受け取ってもらえないなんて。

嘘松だけをピックアップするツイッタアカウントがあるぐらいですからね、しかもちゃんと「ガハハこりゃ嘘やな」って思っちゃう。(裏取りできないが実際嘘だと思う)なぜ?

 

この動画で千原ジュニアが宮迫がアメトークで喋ったセーターの話はさすがにやっちゃってた件を切り出すのだが、宮迫曰くマジやねん、マジで起こった話だと言い張る。

酷な話だが、話者本人と、事が起きたその現場周辺の人間しか観測し得なかった出来事の真偽など、聞き手や視聴者からすればどうでも良く、重要なのはいかにその話が、皆が思い描く現実っぽいかだ。あんたの「真実」より、わたしらが抱く「真実み」にこそ付き合ってや、という勝手な話。

 

宮迫が言うようにマジで起こった話だとしよう。だとしてもこの対談の流れからいって、宮迫は「ごめん盛り上がるかなと思って」みたいなしおらしいポーズで、折れてやり(あの瞬間における「現実み」「真実み」を優先してやり)オチをつけるのが妥当な場面で、それでも個人的真実を優先する。本当にエンタメの人なのか?不本意かもだけど幻想に付き合ってやってよとオモタ。

 

各々個人、全貌を見渡したことすらないのに、いや見渡せないからこそ、まるで「現実」をわかってる気になっちゃって、「この域を超えたら嘘やね」といった判定、つまり幻想の現実を暗黙裡に共有している。その共通認識の許容範囲内で現実は語られなければいけない、窮屈なうつつよ。加工されてやっと現実なのだ。なのだじゃないよ。

 

上述とは微妙に話はそれるしややこしい話だが、現実がフィクションを志向するケースもあるかと思われる。(現実が創作に感化されていくケース。盛ってる、またはバズろうとしてるケース)

近所の商店街は毎朝ちょうど8時になるとスピーカーからラジオ体操の曲が流れてくる。するとそれぞれの店の店主、夫婦らが店前に立ち、いっせいに伸びや屈伸を始めるのだが、それを見たとき妙な気持ち悪さがあった。自分が幻想する現実から、つまり、つまんなくあれ!と設定していた現実から外れていたからだ。(正確には、小林聡美とか、もたいまさこが出てくる映画のワンシーンを意識してるみたいで不純なものを感じるぜ、と思ったのと、現実のなかで現実みを演ってるかんじ)私はね、現実に起きてることを現実のものとして受け止めない自分の傲慢を恥じましたね。なにをそんなに許せないのか。

 

さようなら