ゴムボート

水木しげる

マルチーズを殺さないでくれ

小学生時分、放課後や休日によく2つ年下の弟と隣町の公園で遊んでいた。ある日いつものように弟とその隣町の公園へ向かってるとタバコ屋の前で、同じ小学校に通ってるらしき高学年の少年と出くわした。そいつはマルチーズを連れていた。

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「ファンタのむか?」と出し抜けに訊いてきたそいつに、無垢なままウンと返事して、二人でノコノコそいつについていくと、そこは公民館の勝手口で、そいつは自分ちみたいに簡単に扉を開け、自分らふたりを招いた。

「ちょっとおまえ」とそいつは弟を片付いたシンクの前へ呼び

「これかけたら目ぇ良くなるから」といって上を向かせた弟に七味をまぶした。弟が目が痛いと泣き始めると「これかけたらなおる」といってシンクの横に置いてある小さい冷蔵庫からポカリスエットを出し、弟の顔に浴びせた。それでも泣き止まないものだからご機嫌取りと餞別代わりに「ファンタなかったからこれやるわ、じゃあな」とヤクルトを出してきて、そいつからこの公民館に招いたくせに追い出されたかたちになった。

家に着き、目を赤くさせたまま泣く弟を目の当たりにした父が、そいつの現在位置や特徴をおれから聞き出そうとしてきたが、まだそういった詳細を明言化できる頭をもってないものだから、たぶん同じ小学校のやつで、あとマルチーズを連れていた。としか説明出来ず歯がゆかったが、父が「そいつの犬ブチ殺そう」と言いだしたので、おれは、犬はなんもしてない。おっただけ。と説明しても「いいや見つけたら殺す」と言って聞かなかったのでコイツもヤバい奴だなと思った。

それからしばらくは寝る直前に「あのマルチーズが父に見つかりませんように」と神に祈っていた。

 

その七味の一件から数年経ち、おれは中学一年になり、弟の顔面に七味をまぶしたそいつに再会することになる。というよりこちらが一方的に目撃をする。

その日は全校生徒が学校からほど近い市民文化センターへ出向き、オズの魔法使いの上演を観に行く日だった。おとなしく座席につき照明が暗くなるのを待っていると、座席と座席の間の踏み面が長くて広いゆるやかな階段を何往復も疾駆するクラスのお調子者的存在を実行中である中学三年の、そいつを見た。

顔を見て完全に七味のそいつだとわかった。全校生徒もいるし女子もたくさんいる最中でそのお調子者具合にも一段とキレとスピード感があったように思う。

昔のおれには予知能力のようなものがあった

いま、シャンパンから音を立てて飛んできたあのコルクは、どうせおれの頭の上に落ちてきて跳ねるんだろうな、という予知を2回当てたこともあったし、今から乗るこのフェリーの座敷にあるテレビから、ディズニーのアニメが流れるんだろうなというのを当てたことがある。

それと同様にして、今から七味のそいつは、お調子者実行中にコケて怪我をするんだろうなと思うと、そのとおりになった。まあでもそんなのそこにいた誰もが思っていたことだろうけど。

約束通りつまずいて階段の角で思いっきり頭を打ったそいつは、すぐさま立ち会上がって何事もないかのように努めて気丈に振る舞って、またさきほどの疾駆の続きでもしようかと息巻いていたが、デコから拭った手のひらの鮮血を見るや青ざめ、事の大きさを受け入れられずにいる様子だった。

全校生徒たち、主に女子たちの居る手前で泣いてたまるかの恥じらいや、デコの痛みやら、クラスのお調子者担当としての自意識を顔面で戦わせながら、教師たちに抱えられ救急車を呼ばれていた。

隣に座っていた同級生が「泣いてない、すげえ」と言った。たしかにあの傷で泣いてないのはすげえと思ったが、皆が居る文化センターから出るまでは我慢したのだと思う。

閉演後、油をさしただけで動けるようになったブリキ男、意味わかんねーと思った。

 

 

さようなら