自分自身が描いた絵や写真がすげー好きなんですが自分自身が書いた文章がすげー嫌いです。
名前とかあるんですかね、この現象。こらぁどぎゃあエエの浮かんだやんと頭で思って、出力し、その文章を改めて見てみたらゴミでクソやんけと評価してしまう現象。ただただ正気に戻ってこっ恥ずかしくなっとるだけなんすかね。
それを推敲添削してみてもシルエット整っただけのブスやん。ってむちゃくちゃに否定してしまうやつに名前はありそうなんですがどうなんです。これわりと真面目に書いた文章でおおい。こんなふうにふざけた文章では起きない。
頭のなかで浮かんどる、これええやんやつってやつも頭の中でこねくり回したり寝かしてたりほったらかしにしてるうちに蓋開けてようにみてみたらただのゴミになっとるやんみたいなやつにも、酸化とか腐敗みたいな名前は付いてないんですかね。
頭のなかで寝かしすぎてたんが悪かったんやね、学習したんやから思いついたらすぐに手え動かして表沙汰にしたろっと、って矯めつ眇めつのあら探しをしてしまう前にできるだけはやく出力してみたところやっぱそれも2日経って見返してみたら下痢グソみたいな汚物になっとるやつ、なんなんですあれ勘弁してくれ。
これはどうやら反省ではないです、改善が出来ないものに対しての嫌悪に近い。
反省であれば、直せばいいことなんですが、下痢グソが出ちゃうことに関して反省しても匂いを抑えたり、色をもっと愛らしいパステルカラーなどに変えたりの反映が出来ないように、元来持ってるものに対しての嫌悪なので、と、なんか、書きながらわかりました。ただの自己否定です。今書きながらわかりました。こういうのたまにありますね。解決しました。自己肯定します。
ネットで「あっ、そうそう」からはじまる、今しがた思いついたかのような切り出し方で、告知や忠告をしている人とかたまに居るじゃないですか、あれめちゃくちゃむず痒い。「あっ」をタイムラグの生じ得ない現実で、相対した人間へと告げてるものなら(電話なども可)わかるんですが、文という形として置き去りにしちゃったら感嘆詞の鮮度はソッコーで落ちちゃうので、書く意味はない。「話は変わりますが」って差し込むと急ハンドルな感じがするので、冷血に思われないためのその人なりの配慮だとも思いますが。
自分はさっき上記で「ただの自己否定でした」ともともと用意してたみたいな結論めくことを言ったのですが、信じてほしい。用意はしてなかった。実際に書きながら現場生成された。どうでもいい。
辛辣な客観視も甚だしい、そんな我に返ってしまったのも原因やと思ってます。書いてるときは興奮状態に近いので。
最優秀賞は30万もらえるコンペに金欲しさに記事を書いたんですが、書きながら震えがとまらんかったんですね、こらあすごいもんできるわあ!って、一日で書けたんですけどやっぱ日が経って見返してみたら、これは、結局なんなんって、すべっとるやんって、例の自己否定になっとるんですけど、こらあ震えがとまらんわあってなっとるときの自分と、日が経ってあらためて自分の書いた記事眺めながらあら探しよる自分どっち信じたらいいのか。
たださっき「トンネルの赤ちゃん」が出て来る物語をおもいついたんですけど、これ名作になりそうなんですよね。来週にはゴミやったなおれはどうあがいてもただの凡人やねって言よるかもしれんのんですが。
さようなら。